声溜め

ずっとぼ~っと考えていたことを書いていきます

当たり前

1ヶ月ぶりくらいに東京にきている。

大学卒業後久しぶりである。

 

現在ネットカフェにいるのだが、キーボードが平らでとても打ちにくい。おまけに小心者なのにオープン席を借りたため、通行人にブログを書いているところを見られるのが幾分恥ずかしい。まあ数日後にはいなくなるのでそんなに気にしてはいない。

 

今まで何度かネットカフェは利用したことがあるが、今回のお店は少し感動している。椅子の先に小さめの椅子が配置されており、足を伸ばすのに丁度よくなっている。これだけできてよかったと思えた。

 

余談が長くなったが、今回東京にいる間はブログを書かなくてもいいと思っていたが少し面白いことがあったので書いておきたい。

 

昨日はある友人の家に泊めてもらったのだが、その友人の友人がとにかくお金持ちな方なのだ。お金持ちなのでOさんとでも呼ばせていただく。俗な表現しかできないが、とにかくお金持ちなのだ。

 

 

プライバシーもあるし、不用意にここに書くことで万が一敵にでもなったら、息をするだけで消されそうなので、ただお金持ちだったという事実だけに控えさせてほしい。それほど恐れるほどにお金持ちであった。

 

Oさんに出会って、高級品の需要を理解できた気がする。高級品、過剰とも思える高品質なサービス、このどちらも自分の中では、どこに需要があるのかと思った。

 

個人的なイメージではあるが、ある商品の価格はある水準を超えると著しくコスパが悪くなっていくと思う。車ならおよそ150~200万あたりだし、外食なら1500円といったところだろうか。

 

もちろん価値を感じ取れればいくら払っても良いと思うが、興味のない一般人からすると、商品の価格はそういう仕組みだと思う。だから、賢いお金持ちが買うのにはなんとなく疑問があった。

 

ただ、Oさんと会って自覚させられたのは、あまりにもお金があるとそんなことを考える必要がない、という当たり前はごく当たり前のことだった。

 

年収1億の人が1万円のタクシーで迷う必要はない。年収500万の人が500円でタクシーに乗るならのってしまうだろう。その程度の感覚だと思う。

 

というか、なんとなく私もその感覚はわかる気がした。節約志向な気はするのだが、どこか、「死ぬまでにはできれば全てのお金を使い切りたい」という欲もある。矛盾しているような気もするが、矛盾ではない。価値のあるものに全てのお金を使いたいのである。

 

たいていの物事を自分の価値観で判断してしまう癖が強い。また、自分の好きな、都合の良い情報を集めようとしてしまう。反対の意見もある程度入れるようにしているが、なんともご都合よくするりと頭から抜けてしまう。

 

だからこそ、こういう体験は貴重だと思った。お金持ちだからといって、浪費するわけではない、という概念を少し壊してくれたと思う。寧ろ、高すぎるものも今後必要なのかもしれない、と教えてくれた。

 

もっと人に会わねば、とも思った。

落ちもなにもない、まとまりもないが、今から行かねば間に合わないのでこれにて失礼させてもらう。