不快
一ヶ月も勤めていれば人間関係の中で少しは嫌になることも多少はある。
ただ少し一歩引いてみると、自分もそういう振る舞いをしている恐れもあるし、もっとこちらからの意識的な働きで防ぐことはできたのかもしれない。
ここで悪口を言うことは容易で、ストレスの発散にはなれど、なんの成長にも繋がらないし、改善にも繋がらない。
恐らく今までの記事で書いてる通りで、恐らく私の性格に問題があったと考える方が良いのかもしれない。
ただ、自分でしている行動がどう相手に不快にさせたかは案外分かりにくい。しかし、自分が不快に感じることは容易である。
この少なくとも自分で感じた不快感を他人には与えないようにしていきたい。
事実
タイトルに悩んだがこのタイトルでいこう。
昨日東京から帰ってきた。それなりに充実してたのだろうか。実家にいる一日程度の満足感はあった。
そうそう、これは今通勤中にスマホから書いている。通勤中に書ききれるか、何文字打てるかのテストも兼ねている。
さて、東京に行って先に良かったことから書いていこうか。
これが明確に良いことなのか分からないが、やはり寂しいという感情を思い出せた。いや、思い出さされたの方が正しいかもしれない。
思い出さないようにしているのか、本当に薄い感情なのか分からない。けれども、一応条件はある程度あって、今回はそれに当てはまったのかもしれない。だからこそ、こうして戻ってきた今、特にその感情は無い。
普段、誰かと会おうと思うことはほとんどない。東京で会うのは、次気軽に会えないのか。もしかしたらもう会わないのか、と思うと少し寂しいと思った。それはそれで仕方ないと思うし、その会わなくなった時間が彼らにとってより幸せな時間につながってくれたらと思う。
駅で書くのはネットカフェで書くよりやや恥ずかしいようだ。10分強に一本しか通らない田舎駅であり、電車が行ったすぐに待っていたのだが、少しずつ人が集まってきた。こんな記事を書いているのを生の人間に見られるのは恥ずかしい。それでも書くのだが。
さて、先日bさんに会ってきた。彼氏とaさんとわたし合わせて4人だ。英語がスマホからでは打ちにくいので、美さんとする。美しかったし。
結論から言えば私はなんて言えばいいだろう。甘い言い方しても人間に向いてない。昨日はとても自分勝手だったと思う。
一応ホストか私だし、それなりに仕切ったりなど最低限でも形でもすべきだった。できないこともなかった。
ただ、本性が出たか、その場では彼の方が場をまとめるのが上手いので、ほとんど彼に頼っていた。
もっともタチが悪いのは、会話の途中で無言になった際、誰が話題を切り出すかな、なんて思ってしまう時がある。多分この一言で読者を失う気がするが、残念ながらそうやってその場を楽しもうともしてしまう。
なんとなくその場をつなぐ一言を言うこともできたが、みんながどんな風に何をどのタイミングで話すのか、そんなことをいちいち楽しんでしまう。本当に申し訳ないなと思いつつ、少なくとも美さんはもっといい人と結ばれて幸せになって欲しいと途中から思いもうその後は、そう祈る半分楽しむ半分だった。
今回のことから分かったのは、自分にはやっぱり誰かといたいという欲求が希薄であるはということ。
個人個人は自分の好きなように行動すべきだと思う。だから、自分と一緒にいるよりも楽しいことごあるなら、それを優先すべきだと思う。いや、自分自身がそうなので、単に主張を押し付けているだけなのかもしれないが。
今回美さんとの出会いを逃したのは残念だったのだろうか。ただ、あんなに綺麗な人だからそもそも自分が好意を抱いても駄目だったかもしれないし、自分の熱意が足りずに逃したのかもしれない。ただ、どちらにせよ後悔という気持ちは薄い。
そんかことより、aさんの話を聞いてる方がやっぱり面白かったし可愛らしかった。そのお友達を見れただけで十分だった。というのが率直な感想ではないだろうか。なんと自分勝手なんだろう。ただ、本当にそう思うなら文書にする前に行動を改善すべきなんだろうな。
先にも書いたが、私自身が自分勝手であり、それ故相手にも自分勝手をむしろ求める。自分が気楽であるし、人の欲求を見ているのはとても面白い。残念な人と言われるだろうが、今のところ悪いとは思っていない。
ただ、もう少し気を使えるようにしていきたい。どこかの記事でもそんな風に書いた気がする。
恐らく私は真の孤独には耐えられない人間だと思う。常に家族から溢れるほどの承認を受けている(自分で言うのもなんだが)。
また、ふと暇になったときに遊ぶことのできる友人もいる。遊べないのではなく、遊ばないを選択しているだけである。
本当に孤独というわけではないのだ。多分気付いていないか、自覚したくない事実なのではないだろうか。だからこんなわがままな性格なのだと思う。すごく自分の中で自分の性格は説明しやすい。
これから何年後、何十年後先になるか分からないが、この環境がなくなることは明確である。そして、孤独に苦しむ日はいつかやってくる。薄々感づいて、美さんにも会ってきたのだろう。
だが、まあ自覚の程度は薄かった。だからこそ、今回の出会いを大切にはできなかった。
こうして少しでも書いてくことで現実と将来に向き合っていきたい。
当たり前
1ヶ月ぶりくらいに東京にきている。
大学卒業後久しぶりである。
現在ネットカフェにいるのだが、キーボードが平らでとても打ちにくい。おまけに小心者なのにオープン席を借りたため、通行人にブログを書いているところを見られるのが幾分恥ずかしい。まあ数日後にはいなくなるのでそんなに気にしてはいない。
今まで何度かネットカフェは利用したことがあるが、今回のお店は少し感動している。椅子の先に小さめの椅子が配置されており、足を伸ばすのに丁度よくなっている。これだけできてよかったと思えた。
余談が長くなったが、今回東京にいる間はブログを書かなくてもいいと思っていたが少し面白いことがあったので書いておきたい。
昨日はある友人の家に泊めてもらったのだが、その友人の友人がとにかくお金持ちな方なのだ。お金持ちなのでOさんとでも呼ばせていただく。俗な表現しかできないが、とにかくお金持ちなのだ。
プライバシーもあるし、不用意にここに書くことで万が一敵にでもなったら、息をするだけで消されそうなので、ただお金持ちだったという事実だけに控えさせてほしい。それほど恐れるほどにお金持ちであった。
Oさんに出会って、高級品の需要を理解できた気がする。高級品、過剰とも思える高品質なサービス、このどちらも自分の中では、どこに需要があるのかと思った。
個人的なイメージではあるが、ある商品の価格はある水準を超えると著しくコスパが悪くなっていくと思う。車ならおよそ150~200万あたりだし、外食なら1500円といったところだろうか。
もちろん価値を感じ取れればいくら払っても良いと思うが、興味のない一般人からすると、商品の価格はそういう仕組みだと思う。だから、賢いお金持ちが買うのにはなんとなく疑問があった。
ただ、Oさんと会って自覚させられたのは、あまりにもお金があるとそんなことを考える必要がない、という当たり前はごく当たり前のことだった。
年収1億の人が1万円のタクシーで迷う必要はない。年収500万の人が500円でタクシーに乗るならのってしまうだろう。その程度の感覚だと思う。
というか、なんとなく私もその感覚はわかる気がした。節約志向な気はするのだが、どこか、「死ぬまでにはできれば全てのお金を使い切りたい」という欲もある。矛盾しているような気もするが、矛盾ではない。価値のあるものに全てのお金を使いたいのである。
たいていの物事を自分の価値観で判断してしまう癖が強い。また、自分の好きな、都合の良い情報を集めようとしてしまう。反対の意見もある程度入れるようにしているが、なんともご都合よくするりと頭から抜けてしまう。
だからこそ、こういう体験は貴重だと思った。お金持ちだからといって、浪費するわけではない、という概念を少し壊してくれたと思う。寧ろ、高すぎるものも今後必要なのかもしれない、と教えてくれた。
もっと人に会わねば、とも思った。
落ちもなにもない、まとまりもないが、今から行かねば間に合わないのでこれにて失礼させてもらう。
批判
批判とは辞書によれば、
1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。
とある。
私が思っていた意味は2に近い。近いというのは少し違っているからだ。
例えば一般的に正しいとされることに対しても、私は”批判”をしがちでる。ということで、今回のテーマを批判にしたのだが、どうやら辞書にその”批判”の意味はなかった。
私の視点、価値観に基づいているのだから、批判するで正しいのだろうか。世間ではそれを、ワガママとか、悪口と言うのではないだろうか。今まで本も大して読まず、日本語は通じれば良いと思っていたつけがここで痛く響いている。少しずつ語彙を増やしていきたい。
ここでは、戒めの気持ちもこめて、ワガママでいこう。
私のワガママというのは、様々な場面において出てくる。直接口に出すことも行動に出すこともないが、私のワガママは間違っているとも思っていないし、私のようになればとも思っている節がある。それほど強くは思っていないが、どうして私と同じように考えないのか?と思うことはある。
例えば、自然についての私の考え方は次のような感じである。
自然は何も手の加えられていない状態。だから手入れのされた花壇や、住みやすくなっているキャンプ場は自然ではない。何を手に加えられていない状態が本当の自然だ。だから、あなたたちの美しいという見せ物用の自然を美しいというは、何かおかしくないか?
と、まぁこんな気持ちを持ってしまうわけです。これを思うこと自体は悪ではないと思うし、面白い考えだね、と言ってくれる人はいるだろう。
だが、これを押し付けようとした瞬間やはりただのワガママだろうし、悪というか害になる。
こういうことを書こうと思っていた。ただ、やっぱりこれじゃあ、ただの悪口というか、自分の思考を硬直化させるだけで、「自分は幼いです」とオブラートに包んで表現してるだけになってしまう。こうして書かないと自分は自分自身を振り返らないのかなと書きながら思った。
ただ、書き方を変えれば良いのかな、と思ったのが今の結論である。書き方1つではワガママになる。
「俺が正しい、だってこうでこうなんだ、だから俺に従え」という内容になってしまってはワガママで終わる。
それを、「世の中はこうです。ですが、こう考える人もいるし、私個人はこうも考えます。どうなるかは分かりませんが、私の考える通りになると面白いですね。(締めに一捻り入った皮肉)」といった感じにすると、だいぶマシになると思う。というか、大人の会話って確かこんな感じだった気がする。確か私も大人なのだが。
という訳で、完全に好き勝手に書くのではなく、内容は、より読者を意識していきたいと思った。
こう思ったのも、ここ数日でもこのブログを見てくださる方がいるからだ。1人でいいから読者が欲しいと思っていたが、有難いことになってくださる方がいた。それが書き方を変えようと思うきっかけにもなっている。
なんだかんだ他の人に見られる、認められることは、気持ちがいいことなのだと改めて思った。読んでくださっている皆様ありがとうございます。
とは言っても思ったことを書きたいとも思っております。
書きたいことを書いているのに、それが単なるワガママだとか悪口にならず、単に1つの記事として成立するよう努力していきたいと思います。
何卒、よろしくお願いします。
結婚
結婚はしたいとは思うが、とくに何か努力してまでしたいというほどではない。
現状の生活に十分満足している、はずである。
本当に十分満足しているなら、結婚のことなど考えない。
だが、真面目に結婚に対して考えないのも、ある程度満足しているからなのではないかと思う。
基本的に人間は最適行動をするはずであり、私もまた一人間であるから、きっと最適行動をとっているはずだ。
このGWも今までどおり、なんの変哲もない単なる休日として過ごしてきた。GWだからといって、何か思い立ってすることもなく、淡々と、そして粛々とダラダラ1日を過ごすという至福の休日が続いている。
とはいえ、ある程度暇はあり、その暇を活かしてさらに豊かな生活を送りたいと思ってしまうのが私の性である。そこで、ふと考えるのは結婚をすべきかどうかである。
この年まで彼女はできたことはない。欲しいという感情があったころに彼女ができなかたったので、いなかったのではなく、できなかった、が正しい。そのため、結婚すべきかどうかより、できるかどうかを考えるべきだろう。
ここで先日書いたように、どうやら自分は自分に甘い。
本気でしたいと思えば、できると思っている。今書いているこの瞬間に気づいた。
自分に甘いのはもう本能なのかもしれない。本能より適切な単語があるはずだが見つからない。まぁそんなことはどうでもいい。コメント頼りにしてます。
さて、ただ、結婚できるかどうかは、本気でしたいと思えばいかようにもなるだろう。相手を選ばないなり、相手に合わせる努力なり、自分磨きなり、方法はある。
だが、それも”結婚したい”という欲求がなければ、そういった行動にすら移ることはない。だからこそ、まず、自分自身に本当に結婚したいかの意志を問いている。
今のところやはり、答えはNoのようである。
恋愛もしたことない男が結婚を語るのはなんとも滑稽だが、結婚すらも損得で考えてしまう私にはどうも損なシステムにしか思えない。メリットがあまりも自分本位すぎて、相手に対して失礼にしか思えず、どうもメリットをメリットと思えない。
相手に性欲を満たしてもらったり、いつくるか分からない寂しさを埋めてもらう、そんなために結婚はすべきではないだろう。もし、相手が私のように非感情的に会話してくれるなら、それだけで十分に結婚したい動機になり得る。
しかし、男女間で、まして夫婦間で本当にそんな会話は望めるだろうか。「私たちの結婚は果たして本当に必要だっただろうか」なんてことすら軽い会話ですら恐らく私はしたくなってしまうだろう。何につけても、なぜそれをするのか?必要なのか?そう思ってしまう、聞きたくなってしまう。そして、相手との距離が近いほど聞いてしまう。
その1つの問いかけが相手との関係性を崩してしまうことは十分にある。実際には聞かずに相手とこちらから距離をとって私から離れる、ということがほとんどではあるが。結婚になれば離れることはできないのだが。
さて、少し話はそれたが、やはり結婚におけるメリットはほとんど見当たらない。やはり、そんな理屈を考えずとも、「ただ会いたい」と思える相手に出会うまでこの問は不毛な気がする。
だが、今悩まずして、あの時もっと考えて結婚していれば、とはなりたくないのだ。だからこうして記事を書いている。
実は数日後、A子から女の子(B子としておく)を一人紹介してもらうことになっている。と言っておきながら、A子となら結婚してもいいかな、と思っている。だが、A子には彼氏がいるし、A子は彼氏のことがとても好きそうである。だから諦めた。A子自体は僕に似た少し冷めた、人付き合いの狭いタイプで、その友達だから、A子の代わりになるかなと思って紹介してもらうことにした。たぶん。お願いしたのが2ヶ月くらい前だから、なんで紹介してもらおうと思ったのか思い出せない。けど多分、代わりになってくれればと思っているんだろうな。
A子はお世辞にも可愛くはない。けど、そんなことはどうでもいい。ただただ、真面目で控えめな女性である。それだけで十分に魅力的な女性であった。そういう女性だからこそ全力で尽くしたくなる。なんとかいうか、頑張っているから(妄想かもしれないが)、正しい生き方(個人的に)だから報われて欲しい。その気持ちが、尽くしたいに繋がっている。
とはいえ、まぁ、向ける矛先を直接向けてはいけないので、そっとそらすことにした。
この気持ちはなんだろう。ただ会いたいとかそういう感じではない、だが、いわゆる親友という気持ちなのだろうか。会えなくとも信頼しているし、困ったら助けてあげたい。そんな気持ちだ。多分A子は今の彼氏とうまくやってくんだろうけど、なんかあったら助けたいという気持ちはこの先も消えないんだろうな。ただ、彼氏のこともよくしっているし、他人の幸せを奪ってまで自分の幸せを優先できない。
という経緯で今度、B子さんを紹介してもらうわけである。距離的には、遠距離に限りなく近い中距離といったところだろうか。果たしてうまくいくのだろうか。なんて考えていたが、この考えは本当に不毛だと気づいた。うまくいったらいっただし、いかなければそれまで。本当にそうだと思った。なんでここで考えるのはやめる。
ただやはり、結婚するべきかどうかの問は非常に難しい。
少なくともやはり現時点で、できない、とは思っていない。
明確なメリットを見いだせないからこそ、動けない。
ただ、最悪失敗してもいいから1回してみてもいいかな、という気持ちももっていいような気はしている。知ることと、体験することは別物だ。結婚は理屈で考えられるほど簡単なものじゃないだろう、きっと。だからこそ悩んでいるし。
そこそここの記事も長くなってきて、同じことを何回か書いていているかもしれない。読者の皆さんには申し訳ない。
そろそろ落としどころをつけたい。でもつけられない。
とりあえず彼女を作るところからだろうか。
他人に合わせるということ、私がずっと避けてきたこと。
このこと本当に向き合ってからこそ、この問にもう一度向き合うべきなのかもしれない。
どうだろう。やっぱり考えられることではないのかもしれない。
結婚する人生、しない人生。どちらも魅力的ではある。
ただ、しない人生はいつでも送れるが、する人生は僕の場合は早くから動かないと厳しそうな気もする。年々人への愛着は薄まるばかりである。
というわけで少し積極的に動くこうかと思う。
というより2か月前の僕がこうだったのかもしれない。
うすうす勘づいていたのだろうか。
意識的に出会いを増やことが結論への近道だと思う。
今は考えるより、もっと行動して体験することが必要なのだと思う。
少しばかり遅れを取っているが、仕方あるまい。
私がどちらの結論をとるにせよ、納得した上で結論を出したい。
結婚できるかどうかは別として。
自分には甘い
人の行動を観察しているのが好きなんですよね。
そして、多くの対象は”頭の良い人”なんですけど、結構自分に甘いところが見られるんですよね。
知識と理性共に兼ね備えていて、少し考えて、計画すれば良いのにとか、
もっと他者に頼らず自分で自己肯定すればよいのに、とか。
でも少し考えてみてください、僕がこの記事を見て!と頼んでいること、
社会と適合しようとしないこと、とか様々な場面で普通に甘えてるんですよね。
他者を客観的に批判的になるのは容易でも、自分を批判すること、そして自己批判しても、その批判から反省して行動を正すってなかなか難しいんですよね。
だからこそ、このいう文面に出すって大事なのかなと思いました。
ここでは多くの反省を書き出して、行動を変えていくきっかけになれば、という思いもあります。
会社にもTwitterのようなもので、週報を書いているんですが、どうしても正直に書けないことが多い。起きる時間をコントロールするのが先進国のすることか?w
なんて主張をもった人間がどストレートに書こうとすると、ほんと無理があるんですよね。
文章も少しずつきれいにしていこうと思います。
何卒、よろしくお願いします。
どう生きていくか(落書きver)
社会人生活も1ヶ月たった。
なぜ働くのか、ついての問は自分の中で大まかに解決してきた。
生きていくために必要だということ。
ただ、どう働いていくか、についての問はまだ解決できそうにない。
会社にしがみついていくのも、自分で自立していくのもどちらも選択肢として魅力的だと思う。
ただ、精神衛生上とか色々考えると、やっぱり自立していたいものである。
ともすれば、ある程度のプライベートを犠牲にしなくてはならない。
幸いなことにプライベートを削ることにそれほど嫌悪感はない。
問題は、削った時間を有効活用できているかである。
自己犠牲はそれほど苦ではない、というよりは、
戦略の上で、将来の果実のために、一時的な苦痛は苦痛でない、と捉えるからだ。
(文章汚ねえ)
削った時間を有効活用できるだろうか?
つまり、本を読んだり、会社のこと(or技術系)のことを勉強する時間は
将来本当に役に立つのだろうか?
そう考えて1日終わる、そんな日が1ヶ月続いているわけです。
行動する前に少し考えることは、世間的に肯定されますが、
これはあまりにもひどいんですよね。
そろそろ、こうして書くなりして、もうすこし現実と向き合ったほうが良いかなと
思った次第です。
書いてる途中ですが、やはりテーマをわけないといけないですね。
書いてる本人もどっちに向かうか悩んでる最中ですし、読者の皆さんも
何言ってんだこいつとなってると思います。
そろそろ本題へ入りましょうか。
Q.なぜ働くのか?
A.働かないと生きていけないから(僕のことご存知なら、僕はこの当たり前をなかなか”受け入れたくない”ということをわかってもらえると思います)
Q.じゃあどういう風に働くか?
A.どうしましょうか!
4月入ってから、今日のついさっきまで真面目に考えていたんですよね。転職を見据えた動きをするか、とか、最低限頑張るとか、自給自足の道を探すとか、とりあえず今の部署で一番になるとか。
まぁ新人が考えられる範囲ってせいぜいこの程度ですかね。
この選択肢のひとつひとつ、どれをとっても、”自分が良い”と思えれば問題ないんですよね。でも、僕はその理由が思いつかなくて選べないんですよね。
そこで、自分の幸せってなんだって考えてみたんですよね。
①衣食住の不安がないこと
=ユニクロレベルの服を着れること。スーパーで自炊すれば最低限3色食べられること。家族1人に1部屋あって、自分の庭があるか近くに公園や川があること。
②インターネットが使えること
③好きな時間に寝て、好きな時間に起きれること
=何時間働いてもいいけど、本来人間がコントロールできるはずのない睡眠時間を、コントロールすることは、個人的に受け入れられない
この3つが満たされていれば、基本的に僕って幸せなんですよね。
どうやって幸せかを判断するかは難しいんですけど、人間って自然と幸せになるように行動すると思うんです。僕が今ままでの人生振り返ってみると、やっぱりこの3つが満たされていれば、それ以上を手に入れようとしないんですよね。
人が旅行に行ったり、少し贅沢なものを買ったりするのと同じように、僕はただ何にも拘束されずに生きている、という状態を求めているんですよね。
さて、この3つの条件を満たすためにどうするか、です。
①、②(=衣食住+インターネット)に関してはある程度のお金が必要です。そして、今の家で”一人で”暮らそうと思うと、税金が思った以上にかかるんですね。
ともかく、ある程度のお金が必要、と。
③は非常に難しいですね。僕個人のわがままですからね。これを社会に許容させるのはとても難しい。とはいえ、やはり叶えたい。できる限り叶えたい。
ただ、なんの力もない自分には③はほんと雲を掴むような話で、いきなり③にたどり着くというよりは、③が実現するのはやはり、①②の延長線上で目指すのが現実的かと思われる。
そもそも、①②③を分けて考えること自体が自己満足で、
働くということから目を背けたいだけなのかな、とつくづく最近感じている。
そして、どのように自己投資していくか、と考えたが、自分にはもっと大きな課題がある、と今書きながら気づいている。ずっと前から気づいている。
どうやって、会社の人達と、そしてゆくゆくは、社外の人とうまくやっていくかだ。
一人が好きというか、面白いと思わなければ人とは距離をどうしてもおいてしまう。
この性格が社会に適合する上で非常に大きな足かせになっている。
もう1ヶ月も立つので、社員と仲良くなっている子もいれば、自分のような人もいる。
非常に残念ながら、この状態を”心地よい”と感じてしまうのだ。
まだ、”つらい”とか”苦しい”と感じられれば自然と好転するだろう。
しかし、
”まずい”とは思っていても”心地よい”のだ。
自分よりほかの人に話を振って、それを僕はただ聞いている。
この構図が非常に好きなのだ。3人で余っている自分、
本来であれば可哀想と思われるだろうが、僕は狙ってそのポジションを奪いに行く。
全く社会に適合する気がないのだ。まさに某氏の言葉通り、
「社会が私を迎えにきて!」状態そのものなのである。
淡々とお給料を貰っている今はそれほど問題はないかもしれい。
いや、そういう状況だからこそ、まだこんな温い気構えでいてしまっているのかもしれない。
嫌われたり、浮いてしまうことが僕の中では問題ではない。
会社の中での成長の機会が失われること、待遇面、要望のしやすさ等に問題がでることが問題なのである。
まだまだ、浅い視点だが、一番の問題はここにある。
何より、社内の人とすらうまくやれない人間が社外の人とうまくやれるなんて、そんな都合の良いことがあり得るだろうか。そろそろ現実を見なくていけない。
幸いなことに、真似る良いモデルはいる。
残念だが、非常に苦痛を強いられそうである。
だが、これに耐えようかと思う。
ここまで綺麗に話がそれたが、
①②(衣食住+ネット)③(自由睡眠)を完全に満たすための方法はない。
というのが今の結論で、今後の努力は①②③の可能性を高めることでしかない。
けれども、高めて損は無いので、無理のない範囲で努力していこう、というのが
今の気持ちである。
だからこそ、もっと社会に出ている時ぐらいは、
もっと気に入ってもらえる人になるようにしようと思う。
ここまでやっぱり振り返っても、現実見ろよwwwwwww
の一言につきるのかな。
僕は一人でいるとき(休みのときのが正確かな)は
やっぱり現実でないと思う。
日本の中で住んでいるけど、僕の知っている日本とは少し違う
価値観で生きている。社会(日本)と適合する必要の無い世界、そんな感じに錯覚して過ごしてる。
けど、ま~、そろそろ目を覚まします。
たぶんこの記事消す気がします。
やっぱり、頑張ることは嫌いじゃないんだけど、明確な目的(意味)が欲しいんだよね
今回は、とりあえず、①②③の確率を高める。
それで妥協しました!
というご報告です。1ヶ月かけてそれかよ、と思うかもしれませんが、
それだけです!!
文章書くのむずいんごねぇ